紹興魯迅故里導遊詞十篇

紹興魯迅故里導遊詞 篇1

各位遊客們,大家好,我是來自紹興的沈導遊,長話不多説,現在就由我帶着大家去魯迅故里走一走,感受一下那裏的美麗風景吧!

紹興魯迅故里導遊詞十篇

到了,這就是我們今天的目的地—魯迅故里。首先,馬上你就可以看到這條街的左邊就是著名的咸亨酒店,它坐北朝南,門外塑有魯迅筆下人物孔乙己的雕像,裏面有我們紹興著名的土特產,比如臭豆腐,茴香豆,莓乾菜和熱騰騰黃酒等,想去品嚐品嚐的遊客不妨到裏面坐一坐。

再往前走,就進入了魯迅故里的後門,這整條街是用石板鋪成的,所有的建築都是磚瓦結構,很有江南水鄉的特色,這條街也十分熱鬧,人也非常多,所以後面的遊客千萬別掉隊。再往前走,左邊有魯迅先生生活的地方—魯迅故居,它的門前還有一條小河流過,是以前的交通要道;故居的後面是百草園,他童年時代的樂園,玩耍嬉戲的地方;三味書屋是清末紹興城裏有名的私塾,魯迅12 歲——17歲就在這裏求學。這些地方里面的傢俱基本上都是當年的原物,保持着原狀。大家可以去自由地參觀一下,聯繫魯迅的一些作品可以增加大家的遊興。

另外要想買些土特產的可以在這條街去看一看 ,很多小商店都可以買到,紹興土特產是好吃不貴,引來不少遊客的關注。

紹興魯迅故里導遊詞 篇2

各位團友,歡迎你們參觀紹興魯迅紀念館。紹興是座歷史文化名城,自古人傑地靈,羣星燦爛,我國現代偉大的文學家、思想家和革命家魯迅就是其中一個傑出的代表。魯迅原名周樹人,1881年9月25日誕生於紹興都昌坊口一個破落的封建士大夫家庭。他7歲啟蒙,12歲就讀於三味書屋。13歲時,祖父因科場賄賂案下獄,父親周伯宜因此一病不起,從此家道中落,飽受世態炎涼。魯迅18歲那年,毅然“走異路,逃異地,去尋求別樣的人們”,先後去南京、日本學習。夏回國後,先後在杭州、紹興、北京、廈門、廣州和上海等地從事教學工作和文學創作。1936年10月19日病逝於上海大陸新村寓所,享年56歲。

魯迅一生有1/3以上的時間是在紹興度過,他不僅在故鄉度過了童年和青少年時代,而且還進行了他初期的教學實踐、文學創作和社會革命活動。故鄉的生活經歷不僅對他的思想發展有很大的影響,同時也是他文學創作的重要源泉。今天我們要踏着這位偉人的足跡,尋訪他的故園。

現在我們來到魯迅先生的出生地——魯迅故居。魯迅故居位於都昌坊口周家新台門西首。周家新台門是周家多年聚族而居的地方。它建於清嘉慶年間,坐北朝南,青瓦粉牆,磚木結構,是一座典型的江南特有的那種深宅大院。經族人共議將這座屋宇連同後面的百草園賣給了東鄰朱姓。房屋易主後,原屋大部分已拆除重建,但魯迅故居的主要部分幸得保存,所以今天我們能有幸看到這原汁原味的魯迅故居。

這兩扇黑油油的石庫台門,原系周家新台門的邊門,是魯迅家人出入的地方。

這間普通的泥地平屋是魯迅家當年用來安放交通工具的地方。大家都知道,紹興有“東方威尼斯”之稱,因此在一般家庭中都備有水上的交通工具,那兩支高大的櫓是大船上所用,而那兩支小的是烏篷船上用的槳。轎子是陸上交通工具,其中轎槓系魯迅家原物。

從右側門進去,穿過長廊,就到了“桂花明堂”。明堂在紹興俗稱天井,這裏原來種着兩株茂盛的金桂,桂花明堂由此得名。魯迅小時候夏天經常躺在桂樹下的小板桌上乘涼,他的繼祖母蔣氏則搖着芭蕉扇一邊打扇,一邊給小魯迅猜謎,講“貓是老虎的師-父”、“水漫金山”等故事,使魯迅從小就受到民間文學的薰陶,為他以後的文學創作提供了豐富的素材。後來,他在《狗·貓·鼠》、《論雷峯塔的倒掉》等文章中均有生動的回憶。

穿過桂花明堂,便來到魯迅的卧室。夏,魯迅從日本留學回國後,從杭州回到故鄉,先後在紹興府中學堂和山會初級師範學堂擔任教職。這間卧室是當時他在紹任教期間的卧室兼書房。魯迅常常在這裏備課、寫作到深夜。他的第一篇文言文小説《懷舊》就在這裏寫成。卧室裏陳列着的鐵梨木牀是當年的原物。您正瀏覽的文章由第一'範文網整理,版權歸原作者、原出處所有。

穿過石板天井,迎面就是保存完好的魯迅故居兩樓兩底。拾階而上,東首前半間是當年魯迅家吃飯、會客的主要活動場所,紹興俗稱“小堂前”。魯迅在紹任教時期,經常在這裏接待來訪的朋友和學生。客廳的右上角那張皮躺椅是魯迅父親用過的。當年魯迅祖父周福清科場舞弊案發後,魯迅的父親被革去秀才身份,此後就一蹶不振,鬱鬱寡歡,借酒消愁,以至病魔纏身後被庸醫所誤,年僅36歲就去世。從此魯迅家也就從小康人家而墜入困頓,經歷了這一系列的家庭變故,少年魯迅飽受世態炎涼和人情冷暖,看到了上層社會的墮落和醜惡,對他的思想產生了極大的影響,從而走上了尋求真理的道路。

與客廳一板之隔是魯迅母親的房間。南邊那張八腳大牀是魯迅的母親——魯瑞睡過的原物。東邊這張小牀是當年魯迅的弟弟周建人睡過的牀。靠窗桌子上陳列着的是魯迅母親做針線活用的物品。魯迅的母親魯瑞是紹興鄉下安橋頭人,性格和善而堅毅,以自修達到能夠看書的文化水平。魯迅對他的母親很佩服,曾經説過:“我的母親如果年輕二三十歲,也許要成為女英雄呢。”魯瑞確實是一個很不平凡的母親,她培養的三個兒子被現代文壇稱為“周氏三傑”。

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小堂前的西邊是魯迅繼祖母蔣氏的卧室。這位繼祖母性情開朗,講話幽默風趣,經常給侄孫輩講故事、猜謎語,魯迅對這位繼祖母留下了深刻的印象。

與魯瑞卧室相隔一天井,就是魯迅家燒菜做飯的灶間,也就是廚房。在廚房正前方的這座紹興舊時大户人家所用的“三眼大灶”,是根據當事人回憶復原的,灶壁上繪有祈福避邪的圖畫和文字。北面牆上的菜罩是當年魯迅家的“忙月”章福慶親手製作的原物。章福慶有時將兒子運水帶來幫忙,並與魯迅結為形影不離的好朋友。魯迅和運水第一次見面就在這廚房裏。“紫色的圓臉,頭戴一頂小氈帽,頸上套一個明晃晃的銀項圈”,就是這個運水讓魯迅認識了一個在書本上見不到的陌生世界。,魯迅在創作小説《故鄉》時,把運水作為模特兒,塑造了“閏土”這個活生生的藝術形象。

紹興魯迅故里導遊詞 篇3

皆さん、こんにちは、今日は魯迅の故郷に遊びに行きます。ガイドです。楽しい一日を過ごすように案內します。

私たちの目的地はもうすぐ着きます。まず魯迅先生についてお話しします。魯迅はわが國の偉大な思想家であり、教育家と文學者であり、わが國の革命事業に巨大な貢獻をした。魯迅の故郷は魯迅が子供の時に生活したところです。

はい、目的地はもう着きました。まず玄関に來たら、大きな石の像が目立つように見えます。上には「魯迅の故郷」という四つの大きな字と魯迅の肖像畫が彫られています。石像の前に子供たちが何人か囲んでいます。彼らの姿はそれぞれ違っていて、生き生きとしています。遠くから眺めると、魯迅先生に対する限りない稱賛を語っているようです。

今、私達の左手に大きな石碑があります。その上に「民族の背骨」という四つの金文字が印刷されています。この石碑は魯迅先生の偉業を記念するために人々が建てたものです。

まっすぐ行くと、三味書屋に來ました。ここは魯迅が12歳から壽老先生のところに勉強に來たところです。その中で、學校の真ん中に置かれているのは壽老先生の講壇で、機の上に本と戒尺が置いてあります。周りに囲まれているのは學生たちの機です。魯迅の機は壁にくっついています。機の右下にはきちんと「おはよう」の字が刻まれています。この「おはよう」の字について、もう一つの特別な物語があります。

魯迅が小さい時、彼らの家は日に日に貧しくなり、彼の父は重い病気にかかった。毎日、魯迅さんは薬局と學校の間を行ったり來たりします。一度、魯迅は父に薬をつかまえるために、學校に遅刻しました。教えた壽老先生は思わず言いました。しかし、魯迅はそのために先生を恨んでいませんでした。ただ黙って自分の機に「おはよう」という字を刻んでいました。

次は百草園に來ました。百草園に入ると、ここは至るところ活気あふれる光景であることが分かります。ここにはいくつかの簡単な緑色の植物が植えられていますが、ここでは魯迅が子供の時一番好きだったところです。子供の時の魯迅はいつもここでコオロギを捕り、木に登り、果物を採り、ほとんど毎日楽しく遊んでいました。

私たちの見學は今日で終わります。今回の見學に感謝します。また遊びに來てください。

紹興魯迅故里導遊詞 篇4

皆さん、こんにちは、私はあなた達のガイドの肖錦川です。今日は紹興魯迅の故郷へ遊びに行きます。

紹興は歴史の長い文化古城で、橋郷、水郷、酒郷と魚米の故郷の美稱があって、「東方ベニス」とも言われています。今日は文學者、思想家、革命家の魯迅の故郷を見に行きます。

まず百草園に來ました。百草園は魯迅先生が子供の時に遊んで遊んでいたところです。彼は『百草園から三味書屋まで』という有名な散文の中で書いていました。周囲のごく短い土塀の根の一帯だけで、無限の興味があります」と百草園の名前は優雅ですが、実は荒廃した野菜畑で、新台門の何軒かの家が共同で持っている野菜畑です。魯迅先生は子供のころ、よく彼の仲間と遊んだものです。彼らはコオロギをとったり、アリがハエを背負ったりする遊びをします。みんなは百草園を旅行しました。これから魯迅の書いた三味書屋を見學しましょう。

三味書屋は魯迅が勉強している學校です。私塾といいます。學生は先生の家に行きます。この塾は先生の家です。魯迅の先生は壽鏡吾といいます。壽老先生は知識が深くて、魯迅とクラスメートに好かれています。ここの機と椅子は高いです。壽老先生の家に行くには學生が自分で椅子を持つ必要があります。教室の右下に、はるかに上を見て「おはよう」という字が刻まれています。この「おはよう」について、もう一つの物語があります。ある日、魯迅のお父さんが病気になりました。お母さんは彼を薬局に行かせました。だから學校に遅れました。壽老先生にひどく叱られました。更に歩いて入って、あなたは1枚が正しいことを見ることができます。ここは樑同書で書かれています。三味書屋にはもう一つの額が壁に掛けられていて、とても目立つです。三味書屋はとても重要な観光スポットです。

今回の旅行は終わりました。もし遊びたいなら、魯迅の書いた人物にちなんだお土産屋さんに行ってください。孔乙己土産店といいます。黃酒などのお土産を食べてみてください。また、孔乙己の大好きなウイキョウ豆と臭豆腐も食べられます。

紹興魯迅故里導遊詞 篇5

親愛なる観光客の皆様、私はあなた達のガイドをすることができてとても光栄です。私たちがまもなく観光するのは紹興の魯迅の故郷です。観光の際は貴重品を保管してください。ゴミを捨てないでください。ありがとうございます。

紹興は歴史の長い文化都市の一つで、「東方ベネチア」と呼ばれています。毛沢東主席が自ら「鑑湖越台名仕郷」と題したことがある。その中で、魯迅先生は名仕の代表の一人です。魯迅は、本名は周樹人で、我が國の著名な思想家、文學者と革命家です。魯迅の故郷の玄関先には、いくつかの石像があります。それは魯迅先生と彼の子供時代の遊び相手です。門に入ると、まず私たちが來たのは「魯迅記念館」です。館の中には多くの魯迅先生の詩があります。その中で一番有名なのは「自嘲」の中の詩で、誰でも知っているのは「冷媒冷対千夫指、首を垂れて甘んじて子供の牛になります」です。記念館を出て、「周家老台門」に來ました。ここは魯迅先生の舊居で、2枚の暗い門を押し開けて、魯迅先生の舊居は當時ではかなり立派で、雄大でした。かまど、裏庭、寢牀、庭、機など、たくさんあります。魯迅先生はこのような本の家柄の大家族に生まれたのです。次の観光スポットは百草園です。ここは魯迅先生が子供のころ遊んでいたところです。百草園に大きな石鹸の木があります。それ以外に、濃密な小さい草と1つの井戸です。子供のころの魯迅先生や仲間たちはよく井上で飛び降りたり、仲間たちとセミを取ったりしたそうです。ここは彼らの楽園です。

紹興はまだたくさんの美しい景色があります。時間があったらゆっくり観光してください。

紹興魯迅故里導遊詞 篇6

魯迅の故郷は主に三味書屋、魯迅舊居、魯迅記念館と百草園からなりました。まず三味書屋に來ました。三味書屋は魯迅が子供の時に勉強したところです。ここには裏庭があります。書院の授業は退屈で、先生の話に夢中になると、學生たちはこっそりここに遊びに來ます。

三味書屋を歩き終わったら、魯迅の舊居に來ました。居間、閨房寢室、坊ちゃん室など魯迅と彼の家族の住所があります。これは先生が子供の時住んでいたところです。

魯迅の舊居をよく観光すれば、魯迅記念館は私の前に現れます。ここに魯迅先生の一生の記録と保存した本があります。魯迅先生の彫像もあります。魯迅記念館は二階あります。興味があれば見學してもいいです。

百草園は魯迅が子供の時遊んだところです。中には大きな木があります。子供の時の魯迅は木の下で仲間と遊んでいます。夜は大きな木の下で涼みます。有名な「百草園から三味書屋まで」という文章はここのことです。

魯迅の故郷はもう泳いでしまったので、一日も終わりました。

紹興魯迅故里導遊詞 篇7

各位の観光客の友達、みんなを歓迎して紹興の魯迅の故郷に來て旅行を見學します。紹興は浙江省中北部に位置し、東連寧波西は杭州に接し、総面積は8000平方キロメートル餘り、人口は500萬人近くであり、現在は越城區、上虞區、柯橋區、諸曁市、姮州市と新昌県を管轄しています。市の花は蘭で、市の木は樟です。紹興は古く「越州」と呼ばれ、南宋は「紹皇帝中興」の意味をとった。紹興は塀のない博物館で、有名な水郷、橋郷、酒郷、越劇の郷、書道の郷と名士の故郷です。紹興は全國初の歴史文化都市の一つです。20__年、紹興魯迅の舊居――沈園観光スポットは國家AAAAA級観光スポットに選ばれました。

観光客の皆様、水郷といえば、紹興河網が縦橫に走り、水域面積は総面積の20%以上を佔め、湖が30餘りあり、また鑑湖が一番有名です。水のあるところには橋があります。紹興の境內には一萬基以上の橋があります。その中で南宋に建てられた中國最古の水上橋「八字橋」は紹興の古い城內にあります。酒の故郷といえば、紹興は黃酒の故郷で、砂糖の量によって元ワイン、ご飯のお酒、酒のお酒、香雪酒の四つの種類に分けられます。越劇の故郷といえば、紹興の娗州は越劇の発祥地で、代表曲は「紅樓夢」「五女拝壽」「梁祝」などがあります。書道の故郷といえば、東晉の時、紹興郊外の蘭亭は「曲水流杯」で有名で、王羲之の酒の後に筆を振るった「蘭亭集序」で書道の聖地となっています。名士の故郷といえば、これは毛沢東主席の當時の紹興に対する稱賛であり、紹興は昔から多くの文化名人を輩出してきました。その中に思想家の王充、唐代の詩人の賀子章、南宋の詩人の陸遊、明代の心學の創始者の王陽明、青藤畫派の元祖徐渭があります。近現代以來、星がきらきら輝いています。教育家の蔡元培、思想家の魯迅、革命家の秋瑾などがいます。科挙の時代を通じて、紹興は2238人の進士を出てきました。清朝の「紹興師父」は中央朝廷と地方役所に行き渡って、「無紹不成司」の美談を成し遂げました。

各位の観光客の友達、今私達は遊覧に行きますのは魯迅の故郷の観光地區です。魯迅は中國現代の偉大な文學者で、思想家と革命家で、本名は周樹人で、「魯迅」は彼が五四運動に身を投じた後に使う筆名です。1881年に紹興の周家台門で生まれました。7歳で啟蒙しました。12歳で三味書屋で勉強しました。18歳の年に南京に行って、その後日本に留學しました。1920__年に帰國しました。杭州、紹興、北京、廈門、上海などで教育と文學の創作に従事しています。1936年10月19日に上海で54歳で亡くなりました。紹興魯迅の故郷の観光スポットは、魯迅の舊居、魯迅の舊居、三味書屋、魯迅記念館などを含み、全體の見學過程は約1時間かかります。

各位の観光客の友達、今私達の來た地方は魯迅の祖先が住んでいます。周家の老台門というグループは最も完璧な清代台門の建築羣を保存しています。みんなは見てください。入り口にハンセン林の額がかかっています。魯迅の祖父周福清はかつて欽點の翰林だったからです。老台門の建物は四進に分けられています。第一進はかごホール、つまりお台門鬥です。第二進は客間徳壽堂で、周氏一族が重大な活動を行い、祖先を祭る公共活動場所です。第三進は香火堂で、ここに周氏の歴代の祖先の位牌が保存されています。四番目の建物は周家族の生活エリアです。今は「紹興民俗陳列館」に改造して、清朝末期の現地の風土と人情を展示しています。

魯迅の祖先の家から出てきて、小さな橋を渡って、三味書屋に來ました。三味書屋は清朝末期の紹興城內の有名な塾で、魯迅は12歳後にここで勉強します。ここの主な生命鏡吾といえば、魯迅は彼の「極方正、質樸、博學」の人を評価し、彼の人となりと治學態度は魯迅に大きな影響を與えた。書屋の真ん中に「三味書屋」という額が掲げられています。清朝の有名な書家、樑同書によるものです。いわゆる「三味」とは、読経の味は稲の樑のようで、歴史の味はごちそうのようで、諸子百家の味を読んでアシルのようです。つまり、読書の味はご飯や料理や調味料を食べるようにどんどん進んでいきます。皆さんは壁の隅を見てください。ここに機があります。これは魯迅の昔の機です。ある時、魯迅は父に薬を買うために、授業に遅れました。先生の厳しい叱責を受けました。そこで、魯迅は機の角に「おはよう」の字を刻みました。このことについては、魯迅は晩年までまだ記憶に新しいです。そして、ある雑談の中で夫人の許広平さんに教えました。1956年、許広平は紹興に來て、わざわざ三味書屋に行きました。懐中電燈を借りて暗い隅で魯迅が自ら刻んだ「早」の字を見つけました。

各位の観光客の友達、今私達は魯迅の舊居に來て、周家新台門とも言います。魯迅はここで生まれ、18歳まで生きました。この二〇〇〇年の間に、家族全體が輝かしいから落ちぶれていく過程を肌で感じ、後の文學創作のために豊富な素材を蓄積しました。1920__年、北京で働いていた魯迅は一族と相談して、この家と後ろの百草園を隣の朱姓の家に売りました。もとの家の大部分は取り壊して再建しますが、魯迅の舊居の主要な部分は殘しておきます。ここには「桂花明堂」という天井があります。2本のモクセイの木が植えられています。魯迅は子供のころ、モクセイの木の下に座って涼みました。祖母から「水漫金山」「貓は虎の師匠」という話を聞きました。桂花明堂を通り抜けて、左手に魯迅が日本から帰ってきた後、紹興の學堂で教鞭を執っていた時の寢室兼書斎で、彼はここで彼の最初の文語文小説「懐舊」を完成しました。家の後ろは百草園で、敷地は約20x__方メートルで、魯迅が子供の時に遊んだ楽園です。ここで20分間観光してください。

紹興魯迅故里導遊詞 篇8

各位來賓,現在我們看到這個園子就是著名的“百草園”,百草園的名稱雖雅,但其實是一個普通的菜園,是當時新台門內十幾户人家共有的一個荒蕪的菜園,平時種一些瓜菜,秋後用來曬稻穀。童年魯迅經常和小夥伴們在百草園內嬉戲玩耍,夏天在樹蔭下乘涼,秋天在泥牆根一帶捉蟋蟀。冬天就在雪地上捕鳥。對於百草園,魯迅曾在《從百草園到三味書屋》這篇著名的散文中作了非常形象生動的描述。文中他無限深情地寫道:“不必説碧綠的菜畦。光滑的石井欄,高大的皂莢樹,紫紅的桑椹……單是周圍的短短的泥牆根一帶,就有無限的趣味。”現在我們所看到的百草園就是魯迅當年筆下的景緻。魯迅12歲時被家人送到三味書屋讀書,不得不與他的蟋蟀們、覆盆子和木蓮們告別,去全城最嚴厲的私塾讀書。下面讓我們告別這裏的一切,跟隨魯迅的文章《從百草園到三味書屋》。

從魯迅故居出來,東行數百步,往南走過一座石板橋,從一扇黑漆竹絲門進去,就到了魯迅少年時代讀書的地方――三味書屋。三味書屋是清末紹興城裏很有名的私塾,它坐東朝西,原是壽家書房,魯迅12歲開始到這兒讀書,五年多的學習生涯,使他受益匪淺,積累了豐富的文化知識,為日後從事文學創作打下了非常堅實的基礎。

書屋正中懸掛着“三味書屋”的匾額,兩邊柱子上有一副抱對:“至樂無聲唯孝悌;太羹有味是詩書。”都是清朝著名書法家樑同書所寫。何為“三味”,根據壽鏡吾先生的兒子回憶:“讀經味如稻粱,讀史味如餚饌,諸子百家,味如醯醢。”其中醯醢是調味品。匾額下掛着一幅《鬆鹿圖》,學生每天上學要先對着匾和圖行禮,然後才開始讀書。

當時私塾的教學,老師是坐在中間的這張方桌邊上的高背椅子上,兩旁的椅子則是供來賓歇坐。學生的課桌是自備的,所以看上去參差不一。魯迅的座位在書屋的東北角,這張硬木書桌和椅子是當年魯迅使用過的原物。我們現在還可以看到當年魯迅在桌子右下角親手刻下的“早”字。關於這個“早”字,這裏面還有一個小故事。有一次魯迅因家中有事,上學遲到了,受到先生的.嚴厲批評,他為了提醒自己,就在書桌上刻下一個“早”字,勉勵和告誡自己今後不可再遲到。

三味書屋的老師名叫壽鏡吾,這是他的畫像。魯迅評價他是“極方正、質樸、博學的人”。壽老先生品行端正,性格耿直,終身以坐館授徒為業,他的為人和治學態度給魯迅留下很深的印象,對魯迅產生很大的影響。

三味書屋後面有一個小園子,園內種有兩株桂花和一株臘梅,當年魯迅和小夥伴常在這一方小天地裏玩抓蟋蟀、找脱殼的蟬蜕,看螞蟻背蒼蠅等遊戲。

請來賓們隨我穿過馬路。現在大家看到的這組頗具規模的清代建築羣就是我們今天要參觀的魯迅祖居――周家老台門。魯迅祖居是目前保存最為完好的典型台門建築羣,是魯迅祖輩世居之地。乾隆十九年(1754年),周氏第八代世祖周紹鵬因家業發展的需要,舉家遷址於覆盆橋,營造這座台門大院,成為頗具規模的封建士大夫住宅。魯迅祖居坐北朝南,青瓦粉牆,磚木結構。台門主體建築有台門斗、大廳、香火堂、後樓共四進。東首有坐東朝西的廂樓九間,西首有坐西朝東的廂樓七間,堂屋之間均有明堂和廊屋貫通。現由“魯迅祖居復b56原陳列”和“紹興民俗陳列”兩部分組成。現在請各位先隨我參觀“魯迅祖居復原陳列”。

這沿街第一進俗稱“台門斗”,建有頭門、儀門。頭門就是這六扇黑漆竹絲大門,俗稱“竹絲台門”。接着便是儀門,左右各有耳房,儀門上方懸掛着一塊藍底金字的“翰林”匾,自右而左書着“翰林”兩個字,左右還有泥金小楷的上下款,上款:“巡撫浙江等處地方提督軍務節制水陸各鎮兼管兩浙鹽政楊昌浚為”,下款:“欽點翰林院庶吉士周福清立”。這位欽點翰林的周福清便是魯迅的祖父。這對周氏來説是前所未有的榮耀,因而在周氏聚族的三個台門斗裏都掛起完全相同的“翰林”匾。第二進為廳堂,紹興俗稱“大堂前”,是周氏族人舉行重大喜慶活動和祭祖的公共活動場所。大廳是三開間的一個通間,正中上方掛着一塊長方形白底黑字的“德壽堂”大匾,這是周氏老台門的堂名。大廳兩旁的左右柱子上有一抱對:品節詳明,德性堅定;事理通達,心氣和平。大廳北面隔一天井是第三進,俗稱“香火堂前”。是祭祀祖宗和處理喪事之用,原堂前正中上方有神龕,存放周氏歷代祖先牌位。香火堂左右各有一間,左邊為客廳、餐室,右邊為佛堂、客房。香火堂北面再隔一個方形的石板天井是第四進。俗稱“座樓”,是周家的主要生活住宅區。座樓中間一問小堂前一般作為平時會客、祭祖用。

各位來賓,我們已參觀完整個中軸線部分,現在請大家參觀西側廂。西側廂自南而北依次是廚房和傭人房間。接下來請大家隨我一起參觀東側廂。東廂花廳是大書房,是台門子弟啟蒙讀書的地方。其陳列與三味書屋不同。書房正上方懸掛着一塊“志伊學顏”匾額,“伊”指以才著稱的商湯宰相伊尹,“顏”指以德著稱的孔子弟子顏回。這是教育台門弟子要立志高遠,學習認真。牆上掛有一盞燈籠,燈籠上有“文星高照”四個字,燈籠外倒掛着一株葱,燈籠裏點一支狀元蠟燭,以示弟子聰明之意。

周家老台門是周氏的祖宅,所以當時周氏有重大喜慶活動和祭祖都在老台門的大廳舉行,魯迅在紹興時期,遇到節慶或祖先忌日,必去老台門行禮。魯迅最後一次到老台門是1919年舉家北遷之時。“魯迅祖居復原陳列”的參觀到此結束。

紹興魯迅故里導遊詞 篇9

百草園,是浙江紹興新台門周家的一個菜園子,米是魯迅幼年時玩耍的地方。

各位團友,歡迎你們參觀紹興魯迅紀念館。紹興是座歷史文化名城,自古人傑地靈,羣星燦爛,我國現代偉大的文學家、思想家和革命家魯迅就是其中一個傑出的代表。魯迅原名周樹人,1881年9月25日誕生於紹興都昌坊口一個破落的封建士大夫家庭。他7歲啟蒙,12歲就讀於三味書屋。13歲時,祖父因科場賄賂案下獄,父親周伯宜因此一病不起,從此家道中落,飽受世態炎涼。魯迅18歲那年,毅然“走異路,逃異地,去尋求別樣的人們”,先後去南京、日本學習。1909年夏回國後,先後在杭州、紹興、北京、廈門、廣州和上海等地從事教學工作和文學創作。1936年10月19日病逝於上海新村寓所,享年56歲。

魯迅一生有1/3以上的時間是在紹興度過,他不僅在家鄉度過了童年和青少年時代,而且還進行了他初期的教學實踐、文學創作和社會革命活動。家鄉的生活經歷不僅對他的思想發展有很大的影響,同時也是他文學創作的重要源泉。今天我們要踏着這位偉人的足跡,尋訪他的故園。

現在我們來到魯迅先生的出生地——魯迅故居。魯迅故居位於都昌坊口周家新台門西首。周家新台門是周家多年聚族而居的地方。它建於清嘉慶年間,坐北朝南,青瓦粉牆,磚木結構,是一座典型的江南特有的那種深宅大院。1918年經族人共議將這座屋宇連同後面的百草園賣給了東鄰朱姓。房屋易主後,原屋大部分已拆除重建,但魯迅故居的主要部分幸得保存,所以今天我們能有幸看見這原汁原味的魯迅故居。

這兩扇黑油油的石庫台門,原系周家新台門的邊門,是魯迅家人出入的地方。

這間普通的泥地平屋是魯迅家當年用來安放交通工具的地方。大家都明白,紹興有“東方威尼斯”之稱,因此在一般家庭中都備有水上的交通工具,那兩支高大的櫓是大船上所用,而那兩支小的是烏篷船上用的槳。轎子是陸上交通工具,其中轎槓系魯迅家原物。

從右側門進去,穿過長廊,就到了“桂花明堂”。明堂在紹興俗稱天井,這裏原來種着兩株茂盛的金桂,桂花明堂由此得名。魯迅小時候夏天經常躺在桂樹下的小板桌上乘涼,他的繼祖母蔣氏則搖着芭蕉扇一邊打扇,一邊給小魯迅猜謎,講“貓是老虎的師父”、“水漫金山”等故事,使魯迅從小就受到民間文學的薰陶,為他以後的文學創作提供了豐富的素材。後來,他在《狗·貓·鼠》、《論雷峯塔的倒掉》等文章中均有生動的回憶。

穿過桂花明堂,便來到魯迅的卧室。1909年夏,魯迅從日本留學回國後,從杭州回到家鄉,先後在紹興府中學堂和山會初級師範學堂擔任教職。這間卧室是當時他在紹任教期間的卧室兼書房。魯迅常常在這裏備課、寫作到深夜。他的第一篇文言文小説《懷舊》就在這裏寫成。卧室裏陳列着的鐵梨木牀是當年的.原物。

穿過石板天井,迎面就是保存完好的魯迅故居兩樓兩底。拾階而上,東首前半間是當年魯迅家吃飯、會客的主要活動場所,紹興俗稱“小堂前”。魯迅在紹任教時期,經常在這裏接待來訪的朋友和學生。客廳的右上角那張皮躺椅是魯迅父親用過的。當年魯迅祖父周福清科場舞弊案發後,魯迅的父親被革去秀才身份,此後就一蹶不振,鬱鬱寡歡,借酒消愁,以至病魔纏身後被庸醫所誤,年僅36歲就去世。從此魯迅家也就從小康人家而墜入困頓,經歷了這一系列的家庭變故,少年魯迅飽受世態炎涼和人情冷暖,看見了上層社會的墮落和醜惡,對他的思想產生了極大的影響,從而走上了尋求真理的道路。

與客廳一板之隔是魯迅母親的房間。南邊那張八腳大牀是魯迅的母親——魯瑞睡過的原物。東邊這張小牀是當年魯迅的弟弟周建人睡過的牀。靠窗桌子上陳列着的是魯迅母親做針線活用的物品。魯迅的母親魯瑞是紹興鄉下安橋頭人,性格和善而堅毅,以自修達到能夠看書的文化水平。魯迅對他的母親很佩服,曾經説過:“我的母親如果年輕二三十歲,也許要成為女英雄呢。”魯瑞確實是一個很不平凡的母親,她培養的三個兒子被現代文壇稱為“周氏三傑”。

小堂前的西邊是魯迅繼祖母蔣氏的卧室。這位繼祖母性情開朗,講話幽默風趣,經常給侄孫輩講故事、猜謎語,魯迅對這位繼祖母留下了深刻的印象。

與魯瑞卧室相隔一天井,就是魯迅家燒菜做飯的灶間,也就是廚房。在廚房正前方的這座紹興舊時大户人家所用的“三眼大灶”,是根據當事人回憶復原的,灶壁上繪有祈福避邪的圖畫和文字。北面牆上的菜罩是當年魯迅家的“忙月”章福慶親手製作的原物。章福慶有時將兒子運水帶來幫忙,並與魯迅結為形影不離的好朋友。魯迅和運水第一次見面就在這廚房裏。“紫色的圓臉,頭戴一頂小氈帽,頸上套一個明晃晃的銀項圈”,就是這個運水讓魯迅認識了一個在書本上見不到的陌生世界。1921年,魯迅在創作小説《家鄉》時,把運水作為模特兒,塑造了“閏土”這個活生生的藝術形象。

後面這三間是魯迅家存放稻穀、農具的地方,右邊這間是章福慶的住所,中間是通向百草園的過道。

各位來賓,現在我們看見這個園子就是著名的“百草園”,百草園的名稱雖雅,但其實是一個普通的菜園,是當時新台門內十幾户人家共有的一個荒蕪的菜園,平時種一些瓜菜,秋後用來曬稻穀。童年魯迅經常和小夥伴們在百草園內嬉戲玩耍,夏天在樹蔭下乘涼,秋天在泥牆根一帶捉蟋蟀。冬天就在雪地上捕鳥。對於百草園,魯迅曾在《從百草園到三味書屋》這篇著名的散文中作了非常形象生動的描述。文中他無限深情地寫道:“不必説碧綠的菜畦。光滑的石井欄,高大的皂莢樹,紫紅的桑椹……單是周圍的短短的泥牆根一帶,就有無限的趣味。”

現在我們所看見的百草園就是魯迅當年筆下的景緻。魯迅12歲時被家人送到三味書屋讀書,不得不與他的蟋蟀們、覆盆子和木蓮們告別,去全城最嚴厲的私塾讀書。下面讓我們告別這裏的一切,跟隨魯迅的文章《從百草園到三味書屋》。

從魯迅故居出來,東行數百步,往南走過一座石板橋,從一扇黑漆竹絲門進去,就到了魯迅少年時代讀書的地方——三味書屋。三味書屋是清末紹興城裏很有名的私塾,它坐東朝西,原是壽家書房,魯迅12歲開始到這兒讀書,五年多的學習生涯,使他受益匪淺,積累了豐富的文化知識,為日後從事文學創作打下了非常堅實的基礎。

書屋正中懸掛着“三味書屋”的匾額,兩邊柱子上有一副抱對:“至樂無聲唯孝悌;太羹有味是詩書。”都是清朝著名書法家樑同書所寫。何為“三味”,根據壽鏡吾先生的兒子回憶:“讀經味如稻粱,讀史味如餚饌,諸子百家,味如醯醢。”其中醯醢是調味品。匾額下掛着一幅《鬆鹿圖》,學生每天上學要先對着匾和圖行禮,然後才開始讀書。

當時私塾的教學,老師是坐在中間的這張方桌邊上的高背椅子上,兩旁的椅子則是供來賓歇坐。學生的課桌是自備的,所以看上去參差不一。魯迅的座位在書屋的東北角,這張硬木書桌和椅子是當年魯迅使用過的原物。我們現在還可以看見當年魯迅在桌子右下角親手刻下的“早”字。關於這個“早”字,這裏面還有一個小故事。有一次魯迅因家中有事,上學遲到了,受到先生的嚴厲批評,他為了提醒自己,就在書桌上刻下一個“早”字,勉勵和告誡自己今後不可再遲到。

三味書屋的老師名叫壽鏡吾,這是他的畫像。魯迅評價他是“極方正、質樸、博學的人”。壽老先生品行端正,性格耿直,終身以坐館授徒為業,他的為人和治學態度給魯迅留下很深的印象,對魯迅產生很大的影響。

三味書屋後面有一個小園子,園內種有兩株桂花和一株臘梅,當年魯迅和小夥伴常在這一方小天地裏玩抓蟋蟀、找脱殼的蟬蜕,看螞蟻背蒼蠅等遊戲。

請來賓們隨我穿過馬路。現在大家看見的這組頗具規模的清代建築羣就是我們今天要參觀的魯迅祖居——周家老台門。魯迅祖居是目前保存最為完好的典型台門建築羣,是魯迅祖輩世居之地。乾隆十九年(1754年),周氏第八代世祖周紹鵬因家業發展的需要,舉家遷址於覆盆橋,營造這座台門大院,成為頗具規模的封建士大夫住宅。魯迅祖居坐北朝南,青瓦粉牆,磚木結構。台門主體建築有台門斗、大廳、香火堂、後樓共四進。東首有坐東朝西的廂樓九間,西首有坐西朝東的廂樓七間,堂屋之間均有明堂和廊屋貫通。現由“魯迅祖居復原陳列”和“紹興民俗陳列”兩部分組成。現在請各位先隨我參觀“魯迅祖居復原陳列”。

這沿街第一進俗稱“台門斗”,建有頭門、儀門。頭門就是這六扇黑漆竹絲大門,俗稱“竹絲台門”。接着便是儀門,左右各有耳房,儀門上方懸掛着一塊藍底金字的“翰林”匾,自右而左書着“翰林”兩個字,左右還有泥金小楷的上下款,上款:“巡撫浙江等處地方提督軍務節制水陸各鎮兼管兩浙鹽政楊昌浚為”,下款:“欽點翰林院庶吉士周福清立”。這位欽點翰林的周福清便是魯迅的祖父。這對周氏來説是前所未有的榮耀,因而在周氏聚族的三個台門斗裏都掛起完全相同的“翰林”匾。第二進為廳堂,紹興俗稱“大堂前”,是周氏族人舉行重大喜慶活動和祭祖的公共活動場所。大廳是三開間的一個通間,正中上方掛着一塊長方形白底黑字的“德壽堂”大匾,這是周氏老台門的堂名。大廳兩旁的左右柱子上有一抱對:品節詳明,德性堅定;事理通達,心氣和平。

大廳北面隔一天井是第三進,俗稱“香火堂前”。是祭祀祖宗和處理喪事之用,原堂前正中上方有神龕,存放周氏歷代祖先牌位。香火堂左右各有一間,左邊為客廳、餐室,右邊為佛堂、客房。香火堂北面再隔一個方形的石板天井是第四進。俗稱“座樓”,是周家的主要生活住宅區。座樓中間一問小堂前一般作為平時會客、祭祖用。

各位來賓,我們已參觀完整個中軸線部分,現在請大家參觀西側廂。西側廂自南而北依次是廚房和傭人房間。接下來請大家隨我一起參觀東側廂。東廂花廳是大書房,是台門子弟啟蒙讀書的地方。其陳列與三味書屋不同。書房正上方懸掛着一塊“志伊學顏”匾額,“伊”指以才著稱的商湯宰相伊尹,“顏”指以德著稱的孔子弟子顏回。這是教育台門弟子要立志高遠,學習認真。牆上掛有一盞燈籠,燈籠上有“文星高照”四個字,燈籠外倒掛着一株葱,燈籠裏點一支狀元蠟燭,以示弟子聰明之意。

周家老台門是周氏的祖宅,所以當時周氏有重大喜慶活動和祭祖都在老台門的大廳舉行,魯迅在紹興時期,遇到節慶或祖先忌日,必去老台門行禮。魯迅最後一次到老台門是1919年舉家北遷之時。“魯迅祖居復原陳列”的參觀到此結束。

下面去參觀魯迅生平事蹟陳列廳。陳列廳是一座中西結合的建築,門楣上方“紹興魯迅紀念館”七個鎏金大字為郭沫若所題。進入大門迎面是一座漢白玉魯迅胸像。序廳左右牆上各掛有魯迅手跡。我們的參觀是從左邊開始。整個陳列以魯迅的思想發展為主線,分五個部分:第一部分介紹魯迅少年時期的社會環境與生活情況;第二部分是魯迅青少年時代在南京、日本、杭州、紹興尋找救國救民的真理與積極投身反清革命鬥爭的事蹟;第三部分是辛亥革命後,魯迅在北京、廈門、廣州繼續探索革命的新路,最後舉起反帝反封建的文化大旗,成為新文化運動的主將;第四部分是魯迅在上海輝煌的十年;第五部分介紹了魯迅逝世後,人們用各種不同的方式紀念他、學習他。

各位來賓,紹興還有許多與魯迅有關的人文景觀,離魯迅故居不遠有一家因魯迅的名篇《孔乙己》而名揚四海的百年老店——咸亨酒店,各位如有興趣不妨去“拜訪”一下孔乙己,品一品紹興酒,嚼一嚼茴香豆,領略魯迅筆下的紹興風情。

參觀到此結束,謝謝大家。

紹興魯迅故里導遊詞 篇10

各位遊客好!這天我以小導遊的身份,歡迎你們參觀紹興魯迅先生故里,請大家保管好自我的財物。跟着我一齊走進紹興吧――

紹興是座歷史文化名城,從古到今,人傑地靈。我國偉大的文學家思想家和革命家魯迅先生就是一個典型的代表,他原名周樹人,此刻我們就來參觀下原汁原味的魯迅先生故里,主要包括魯迅先生故居、魯迅先生紀念館、百草園和三味書屋。

首先,我們參觀的是魯迅先生出生的地方,兩扇黑油油的石庫台門裏,所有房屋結構保存完好,青磚黑瓦,大都是磚木砌成的,從大廳、書房、藏書室、卧室、客房直到廚房,能夠看出魯迅先生家原先是個書香門弟的大户人家。

跨出周家老台門,我們來參觀下魯迅先生紀念館,那裏詳細介紹了魯迅先生坎坷的人生和他發表的名著,他寫的文章好處深刻,書法優美,圖文並茂。一件件一篇篇,讓我們為他的一生感慨,更為他的“橫眉冷對千夫指,俯首甘為孺子牛”而感動。

之後,我們來暢遊一下魯迅先生的童年樂園――百草園。精緻的籬笆把園子圍了一圈,除了那棵顯眼的參天大樹,其它植物花草依舊葱鬱一片,角落裏還有那道泥巴牆,我們似乎還能在這個角落裏找尋到魯迅先生的童年身影。

最後,我們一齊去看看魯迅先生成長的搖籃吧――三味書屋。那裏發生過一個小故事:孝順的魯迅先生因為照顧生病的爹爹,上學遲到被先生責罵,於是,下定決心在椅子上刻下一個“早”字,時刻提醒自我不要再遲到。正是因為魯迅先生有着這種頑強的毅力,才成就了之後偉大的革命事業。

我很高興為大家導遊紹興魯迅先生故里,期望你們把紹興的文化和土特產帶給你們的朋友,歡迎下次再來紹興,多謝大家的觀賞!